録音スタジオでの不思議な出来事

1970年代半ば頃、「プロの音響業界に身を置こうと大志を抱いて」東京に出てきた私は、新宿区矢来町の邸宅を事務所にしていた業務用音響機器の小さな輸入商社に就職した。

その商社は、放送局や録音スタジオで使うテープレコーダーやマイクロフォン、エコーマシンなどを、輸入していた。

それらの機器がどのように使われるかを知るために、技術顧問であったミキサーの平田義一氏の録音に1週間ほど鞄持ちとして、立ち会わせて頂く事になった。

当時の録音はかなり多くのミュージシャン(20名近かったような気がする)や、作曲家の先生、作詞家の先生、編曲家、写譜屋さん、インペグ屋さん(ミュージシャンを手配する専門家)、ディレクター、ミキサー、アシスタントエンジニア(主にテープレコーダーを操作する係)など総勢30人近くの大所帯での作業であった。

大きなモニター・スピーカーから、カッ、カッ、カッと、ドラムのスティックがテンポを取った後、ジャーンとオケの音が飛び出してきて、それは最高にかっこよかったと思った。

ただ、時々急にテープレコーダーが止まり、コントロール・ルームに居た関係者から「クックックッ」と笑いが漏れて、自然と録り直しになるのだが、聴いていた私にその原因がちっともわからないのである!

中学生時代からオーディオ・マニアで鳴らした私ではあったが、演奏が間違ったのか?、ノイズが入ったのか?素人の私には演奏も音もまったく問題がないように聴こえるのである。まさに狐につままれたような感じである。

「さすがにプロは、素人が気が付かない事でも問題視して、完璧を求めるものだなあ」と言う事だけは判ったような気がした。

緑音が進んで行って、なにやらギターソロの部分を差し替えようという事になった。この原因も私には余り理解できなくて、そのため詳しく記憶にないのである。

まず1回か2回、マルチ・レコーダーに録音されている音に合わせてギターを演奏し、OKなので録ることになった。

ソロの部分の録音が終わって、マルチレコーダーが止まると、ギタリストがエコーの掛かった静かな声で「すいません、メンプ(譜面)どおりじゃなかったのですが?」と言うのである。

ディレクターとミキサーとテープレコダーを回していたアシスタントの3者が、互いに目で見合ってニヤニヤしている。

ディレクターが、トークバックボタンを身を乗り出して押しながら、「まあいいじゃないすか、それで行きましょう」と言って、ミキサーと顔を見合わせて、またもや「にやり」と笑った。

私はまるで狐につつまれた様な感じがした。音楽のプロ達はテレパシーを使って意志を伝達しているのだろうか?

下宿に一人帰って、音楽を聴きながらその日の不思議な出来事を思い出していた。なぜギタリストは「譜面どおりじゃなかったのですが?」と言ったのだろうか?

その日の録音を思い出していると、最初演奏しづらそうに聞こえたが、録音したときはいつの間にか自然に聞こえていた事に気が付いた。

「そうか、彼は編曲が自然じゃなかったので、自分が演奏を間違えたふりをして、自然な演奏を提案していたのだ!」そう思いつくと、私は感動のあまり背中が「ぞぞっと」したのである。

「この編曲じゃ弾きにくいですよ、第一不自然じゃないですか」」なんて言ってしまえば角が立ってしまう。それで「演奏をまちがえたふり」をすれば、誰も傷つけることなく、良い録音ができると考えたのだろう。

もしこれが本当だとすれば、「なんて紳士的で素晴らしい業界だ! 一生この業界かそれをサポートする仕事に身を捧げよう!」と私は心に誓ったのである。

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